目次
レコンキスタ(国土回復運動)
レコンキスタとは現在のポルトガルとスペインのあるエリアであるイベリア半島(下図エリア)で行われていたキリスト教国家によるイスラム国家への国土回復運動のこと。
イベリア半島はアフリカ大陸から進出してきたイスラム勢力によって8世紀以降は牛耳られていた。
これを11世紀から15世紀までキリスト教勢力が頑張って奪い返した。
そして成立した国が現在のポルトガルとスペイン(#^.^#)
イングランドとフランス
ノルマン=コンクェスト
イングランドとフランスは中世の時点でほぼ現在の領土と国名を持ってる。そんな2国やけど、現在に至るプロセスは複雑・・・
1066年の「ノルマン=コンクェスト」を簡単に解説ね。
下図は1065年、ノルマン=コンクェストの1年前のヨーロッパ領土。
フランス王国の北部に「ノルマンディー」ってある。
これはフランス王国の領土が奪われたわけではなくて、フランス王国の中にできたノルマン人の公国。
911年にフランス王の家臣となることで、王国内に自分達の国を持つことを許されたんさな。
で、上の地図から1年後の1066年、ノルマン=コンクェスト後の地図↓
ノルマンディーって国名が消えて、フランス北部とイングランド同じ色になってる・・・
どういう事か?
これはフランス王国の家臣であるノルマンディー公国が、イングランドを征服して王朝をひらいたってことなのさ。・・・ノルマン=コンクェスト(ノルマン人によるイングランド征服)
フランス王国の家臣がイングランド国王( ̄▽ ̄)
ややこしいでしょ・・・
でもこれは中世ヨーロッパではそんなに珍しいことじゃないんさ。
頭の片隅に置いておいてほしいのは、この2国にこの事実があったってこと。
イングランドのプランタジネット朝
で、ノルマン朝は88年で終わって、イングランドとフランスに一部の領土を保ったまま、プランタジネット朝ができるんやけど、ここは個人的に大事と判断して少し解説(^o^)丿
このまま歴史が流れていけばイギリスにヨーロッパ大陸の領土があったはずやけど、実際に今はないよね。
それはポンコツが故に歴史を作ったイングランド王のジョンがいたから。
ジョンは失地王とも呼ばれて、ギエンヌ地方って大陸の一部分だけを残して、大陸の領土のほぼすべてを失う。細かいプロセスは省くね。
ギエンヌ地方はこの後解説する百年戦争の争点でもでもあるから、頭の片隅にね。
ちなみにローマ教皇からも一時的にではあるけど破門されてる・・・
これは13世紀初頭の話やけど、この頃は教皇の権力が最強の頃やから、キリスト教徒でなくなることは、国内外にいっぱい敵を作ることになるよね。
で、ポンコツ王ジョンが作った最大の歴史は「マグナ・カルタ」(大憲章)」の承認。
1215年の出来事。
これは教科書に太字で出てくるんじゃないかな。
内容は簡単に説明すると、「国王といえど議会の承認なしでは税金取れない」「教会の自由」「都市の自由」「不当な逮捕禁止」等かな。
今なら当たり前の内容なんやけど、中世ヨーロッパの国王がこれを承認するのは、凄いこと。
ただ優秀で物分かりがいいからではなくて、ポンコツ過ぎて貴族も教会も市民もついてこなかったから、仕方なくの承認ね。
でもこのマグナ・カルタの承認は歴史的には非常に意義のあることで、「法の支配と議会政治の原則」、現在のイギリス政治の基礎がこの時できてる。
この部分が歴史の流れの中で大事と判断しての解説っす。
百年戦争
イングランドとフランスの戦争。1339年~1453年
実際に100年間も争ってた訳ではなくて、断続的な争いが100年以上続いたった感じ。
この戦争を経て、社会と国家が大きく変わるので解説いるかな~と。
戦争の原因はざっくりと・・・( ̄▽ ̄)
・イギリスはポンコツ王ジョンが奪われた領土を奪い返す。
フランスはその時に奪い返せなかったギエンヌ地方を回収する。
・フランスの王位継承にイングランドが納得いかないから。
今までの国王間での領土問題や王位継承問題はローマ教皇が仲介してたけど、この時期は次に解説するローマ教皇の権威の失墜でそれができなかったことも戦争に発展した原因の1つかな。
さて百年戦争がはじまった頃のヨーロッパは封建社会の世の中。
封建社会を作ってた封建制度とは、領主と農奴の関係を軸とした荘園での生産の仕組みとその主従関係のこと。難しいかな・・・
とにかく領主はかなりの権力を持っていて、時には国王に匹敵するくらいあった!!!
まずこれが百年戦争によって衰退していく。
原因はペスト(黒死病)の大流行での人口の激減。
戦争による農奴の疲弊で農奴の反乱が両国共に起こる。
ローマ教皇と領主の衰退は国王への権力増加になり、近世ヨーロッパでの絶対王政への扉を開くと共に、ここからの説明は非常に難しいけど・・・
国家、国民意識が芽生えてくる。・・・分かるかな???
今までもそうやんって感じやけど、封建制の中では国家、国民って概念よりも主従関係が先に来てた。
それは領主も農民もそうで、例えばフランス領内にいる領主や農民がフランス人の自覚をもって働いてはいない・・・たまたまそこで働いているだけって意識が大半。
そういう人達が近代的な国民国家を意識し始めた契機となったのが、この百年戦争なんさな。
戦争の勝敗はあんまり重要ではないけど、一応書いとくかな。
最初はイギリス優勢、後半にフランスに有名なジャンヌ・ダルク登場で形勢逆転。
戦争の命題やったギエンヌ地方の回収に成功しフランスの勝利。
イギリスもカレーって地区だけはフランスから奪って、少しだけヨーロッパ大陸に領土を残した。
ローマ教皇の権威の失墜
1077年の神聖ローマ皇帝を雪の中で3日間謝罪させたカノッサの屈辱から200年ちょっとたった時に、完全に形勢が逆転したことを象徴する出来事が3つ起きる。
・アナーニ事件
フランス国王がローマ教皇に退位を迫り、拉致監禁する。
監禁から救出されたローマ教皇が後に、怒りで憤死したといわれる。
・教皇のバビロン捕囚
フランス国王がローマ教皇をフランス領内のアヴィニョンに移転させた。
バビロン捕囚ってのは旧約聖書にでてくるユダヤ人が無理やりバビロンに連れていかれる話。それに教皇の強制移転をなぞらえた感じ。これは約70年間続く。
教皇がローマに居ないってのはカトリックにとっては非常事態。
・教会大分裂(大シスマ)
多くのキリスト教徒から教皇のローマ帰還の要望が出たため、約70年でローマへ帰還したが、翌年にはアヴィニョンにも教皇が立ち、お互いが破門しあいカトリックの教会の最高機関が2つある状態に。
教皇の権勢失墜の直接原因は前にいった十字軍の失敗がデカいと思うけど、先に解説した百年戦争は教皇がこんな状態やった為に、調停役不在の戦争になってた為、長引いたって背景があるんさな。
今回はここまで
次回はハプスブルク家をメインに
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