目次
概要
第一次世界大戦は1914年7月28日から1918年11月11日までの4年3か月続いた、ヨーロッパ中を巻き込んだ戦争!!
ドイツ、オーストリアを中心とした同盟国とイギリス、フランスを中心とした協商国との闘い。
更にアフリカでの戦闘やオスマン帝国、日本やアメリカが参戦。
飛行機、戦車、潜水艦、毒ガス等の新兵器の登場。
今までの傭兵(職業軍人)、軍隊だけが戦う戦争ではなく一般人を巻き込んだ国家総動員戦になって、戦争の形態を一変させた戦い・・・
ヨーロッパの現代史への繋がりを理解する上で、この大戦はターニングポイントと思う。
教科書で習うのは「サラエボ事件」が引き金となり勃発とだけあった気がする。
「サラエボ事件」とはオーストリアの皇太子がボスニアのサラエボって町でセルビア人の青年に暗殺されたって事件・・・
何故これが世界大戦にまでなるのか?
普通考えたらオーストリア VS セルビアでしょ(◎_◎;)
この事件にドイツ、イギリス、フランスやアメリカは出てこないよね・・・
戦争の結果としては協商国側の勝利。
敗戦国であるドイツは多額の賠償金を背負わされて帝国は崩壊、共和国となる。
オーストリア=ハンガリー帝国も共和国となり、長きにわたるハプスブルク家の支配が終わる。
戦勝国も国土は戦火にさらされている為、疲弊しまくり・・・
アメリカと日本は得したかなって感じ。
この後、詳しく解説ね。
バルカン半島
前回書いたけど、バルカン半島は教科書でも「ヨーロッパの火薬庫」って言われてる。
何故に「火薬庫」なのか?ここを解説ね。難しいけど・・・
上図はドイツとイタリアが統一されたころの19世紀後半の地図ね(^o^)/
赤丸がおおよそのバルカン半島ね。
この時点でバルカン半島は色分けで分かる通り大半オスマン帝国領なのよ。
で、オスマン帝国ってのは多くはトルコ人、イスラム教の国ね。
でもバルカン半島のオスマン帝国は、元々ビザンツ帝国があった場所でギリシャ正教!!
ビザンツ帝国の後期には様々な他民族が自立を果たしてブルガリアやセルビア等が建国されてた場所。
オスマン帝国時代のバルカン半島ってのは様々な多民族が自分達の国を持ちたい欲求を抑え込まれながらトルコ人のオスマン帝国に支配されてた・・・
そのオスマン帝国が第一次世界大戦の前くらいからメチャメチャ弱ってきて、少しずつ独立国家が誕生、復活していったのよ(-ω-)/
その国家たちは勿論少しでも多くの領土がほしい。
だからオスマン帝国や新しい国家同士で領土問題でバチバチ・・・
これにヨーロッパ列強が介入していく・・・
まずロシアが南下政策というバルカン半島とその周辺に勢力拡大したくて進出。
ちなみにロシアはスラブ人の国ね!!!
だからパン・スラブ主義っていうスラブ人の民族的独立が南下政策の大義名分。
これに対してオーストリア・ハンガリー帝国がパン・ゲルマン主義を唱えて、バルカン半島の北西にあるボスニア・ヘルツェゴヴィナって場所を併合。
この時点でロシアとオーストリア・ハンガリー帝国がバチバチ・・・
で、この時既にロシアはイギリスとフランスと同盟を結んでる(◎_◎;)
イギリスにとってのバルカン半島は西アジアからインドへの通り道。
フランスにとっても当時植民地が多かった北アフリカ地域への通り道。
ロシア、イギリス、フランスの3国ともバルカン半島に利害ありなんさ。
そしてオーストリア・ハンガリー帝国はドイツ、イタリアと同盟済・・・
で、まとめると「ヨーロッパの火薬庫」って言われる所以は、
現時点での地主であるオスマン帝国の弱体化に伴い、そこに住んでいた他民族が独立しようと争っていた。そこへヨーロッパ列強の利害が入り込んで、一触即発の状態になっちゃった。
こんな感じっす。
ビスマルク
以前ドイツ帝国誕生の時に個人的には「ナポレオン以上の天才」って書いた人ね。
元々プロイセンの宰相でプロイセンがドイツ統一の時のメインの国。
そしてそのままドイツ帝国の宰相になる。
1871年にドイツ帝国誕生時に宰相になって1890年に辞任するまで、ヨーロッパは「ビスマルク外交」って言われるビスマルクの絶妙な均衡のとり方で大国同士の戦争を回避してきたの。
本当にざっくり言うと第一次世界大戦はビスマルク退陣のあと、大国同士の均衡が崩れて勃発する。
「・・・たら」「・・・れば」はあんまり言うべきではないかも、やけど、ビスマルク健在であれば第一次世界大戦は起こってないって思う。
この場は歴史の流れを理解する場という事で、詳細は書かないけど、知れば知るほど凄い人(^o^)丿
要点だけ言いますね~
まずビスマルクというかドイツの1番の脅威はお隣のフランスなんさ。
少し前にはナポレオンによって征服されてるしね。
で、絶対に避けなければならないのが「フランスとロシアの同盟」
戦争になったら挟撃されるからね・・・そりゃ避けなきゃならんよね。
ビスマルクのこの時代にして斬新な考え方と感じるのは、「ヨーロッパの秩序の安定がドイツの安定」と考えられたってこと。
他のヨーロッパの国々が領土拡張に躍起になってる時代に、その野心がないことをアピールして、各国の紛争の仲介等をしてヨーロッパの平和に努めた。
まあ平和維持の為に秘密同盟や2枚舌外交があったことは否めないけど、とにかくビスマルクの手腕によってヨーロッパは絶妙なバランスで戦争が起きない状態を維持できてた(^o^)丿
そのビスマルク外交が終わりを告げるのがドイツ帝国初代皇帝ヴィルヘルム1世の死なの。
ヴィルヘルム1世はビスマルクに全幅の信頼を寄せて政治外交を一任してた。
けど次に即位したフリードリヒ3世はすぐ死んで、その次に即位したヴィルヘルム2世はビスマルクを辞任させたの(≧◇≦)
ヴィルヘルム2世にはビスマルクの外交が消極的に見えたみたい・・・
ヴィルヘルム2世の人物像に関しては色々とあるみたいやけど、ここでは「ポンコツ」と言わせてもらいたい。
ビスマルクを罷免した後のドイツは膨張政策に舵を切り、イギリス、フランス、ロシアと対立。
それが第一世界大戦へと発展していく・・・
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