「歴史から過去を学び、未来に活かす。
先人達の失敗を繰り返さないようにする事、築いてきたものをより良いものにし引き継ぐ事。」
を命題にして書いてきたけど、今回は・・・
ただ知ってほしい。
こんなにも凄い日本人がいたことを。
個人的にはもっと世に知られていてもよい出来事なのに、あまりみんな知らない。
美しい武士道精神。
初めて知ったときには、涙がとまらなかったこと、覚えてる!!!
先日、ゆかりの地を訪れたので、思い立って書こうと思たわけ。
「概要」を書こうと思たけど、やめ。
順に解説していくことにしますね。だから結果は最後ね。
では、
目次
事件現場はどこ?
まずこの出来事は、何故だかよく分らんけど「事件」って付いてる。
だからという訳ではないが現場を言おう!!
それが木曽三川。
濃尾平野(岐阜県美濃地方から愛知県尾張地方、三重県北部)を流れる三つの川
(木曽川、長良川、揖斐川)が愛知、岐阜、三重の県境で並ぶ場所。
↓赤丸の周辺が事件現場・・・
いつの時代の話?
1754年~1755年の1年3か月間のお話。
1754年とは何時代?・・・江戸時代。
江戸時代は徳川家康が征夷大将軍に任命された1603年~徳川慶喜が大政奉還する1867年までの約260年。だから1754年は江戸時代の中期~後期の微妙なラインやね。
まあ、中期でも後期でもどっちでもええっす!!!
徳川将軍は9代目の家重(いえしげ)
歴代将軍の中でもマイナーですな。知らん人多いでしょ⁉
でも前の8代将軍は有名だよね。吉宗(よしむね)
享保の改革の吉宗の子供なの。
ざっくりそんな時代ってことだけでよいかと。
この出来事の主人公は?
薩摩藩士947名
薩摩は現在の鹿児島県と宮崎県の1部
「現在の鹿児島県にいた武士」って覚え方でよいかと
下図の通り、現場まで遠いよね。
鉄道も車も飛行機もないこの時代、どれくらいかかるのだろう・・・?
手伝普請(てつだいふしん)
何をする為、何故にこんな遠くの薩摩の武士が木曽三川へ行くのか?
の解説には手伝普請(てつだいふしん)について言わねば。
簡潔に基本的なこと言うと
江戸幕府が各地の藩に土木建設工事を、藩のお金でやらせること
凄くわがままな制度やけど、これがまかり通るくらい当時の江戸幕府の権力は強大やった。
ちなみに江戸城や名古屋城などの築城も手伝普請で各藩の武士たちが動員されてる。
で、このころの木曽三川は氾濫しまくり(≧◇≦)
地域住民は幕府へ「何とかして~」と何度かお願いしていた。
当時幕府に直談判するくらいなんで、本気で困ってたと思う。
幕府に殺されるか、洪水で死ぬかくらいの覚悟でいたことが想像できる。
問題は木曽三川みたいな東海地区に何故に薩摩から行かせたかってとこね。
普通、近くの藩に命じるでしょ??
でもな~一番近くの尾張藩は徳川御三家筆頭やし、隣の桑名藩もかなり徳川に近いとこなんよね。
この辺に頼みづらいのは少~しはあったかも知れへんが、幕府は薩摩にやらせたかった。
理由・・・薩摩が強い藩だからお金を使わせて弱らせたかった。
江戸幕府の手伝普請の最大の目的はこれなの。
江戸幕府が強大な権力を持ち続けるためには、全国の藩(大名)に力をもってもらうと都合悪いのよ。
これは世界史でも現代社会でもよく使われてきたし、使われる手なんやけどね。
権力者は統治してる者への「与えるバランス」が重要。
「搾り取りすぎると反乱起こるし、与えすぎると権力を持つ」からね。
会社なら「副業禁止」「収入が給与のみ」は会社が社員の生活を人質にとってる状態。
だから、言う事よく聞いて、反抗せずによく働く・・・
ちょっと違うけど共通点は「程よく生かす」これ大事・・・
世界史ではこのバランスが崩れた時と、外敵が攻めて来た時に統治者は交代してる。
薩摩藩の反応
九州の端から東海地区の治水工事を全額自腹、専門の職人を雇うのもダメって幕府に言われた薩摩の反応ってどんな感じやったやろ・・・
当然やけど、「よーし頑張って治すぞ~」とはならんよね(;一_一)
はっきり言って、あからさまな嫌がらせなんよね!!!
当時薩摩は琉球とかとの貿易で儲かってるって思われてたんさ。
実際はそうでもなかった説もあるんやけど・・・当時の幕府は薩摩を弱らせねばって思ってた。
薩摩藩としてはこれを請け負うことは結構な深刻問題で、金銭的には藩の財政が破綻してしまうくらいの借金がいることが判明・・・藩の中では「幕府と一戦交えて滅びよう」と意見する殉教者も出現する始末・・・!!!
この頃の徳川幕府に逆らう事、幕命に背くことは藩が滅びることを意味する(-.-)
でも納得いかん気持ち、分かるな~
今で言えば国会か内閣から鹿児島県へ「自腹で東海地区の工事やれや~」って言われたら、あまりの理不尽に「なめとんのか~」って思うよね。
国会襲撃はしないまでも大規模デモにはなるでしょ(~_~メ)
そういう強硬派を抑えた人がいる。
平田靱負(ひらたゆきえ)っていう人。
今回は固有名詞を出すのはこの人だけにしようかなと思う。
この平田が強硬派を抑えた言葉は「日本国内で困っている民がいるなら、助けることが薩摩隼人の本分ではないか!!!!」
しびれる言葉!!!
会ったこともない他人のために命を懸けれる武士道やね!!!
こうして平田は強硬派を説破して、難関工事を引き受け、自らが総奉行(責任者)として携わる。
治水工事
河川の治水工事を詳しく知るわけではないけど、非常に大変そうというのは分かる・・・
・普通と違うのは川3本が並んでる・・・それも結構な大河↓ (こんなん3本)
・作業してるのは職人ではなく武士・・・素人集団(;一_一)
幕府は専門家を雇わせてはくれなかったの。
地元にお金を落とさせる意味で、雇えたのは地元民のみ。
・設計と計画は幕府・・・途中の見直しも頻繁!!!費用も余分にかかる。
過酷な状況下での過労、病気(当時は赤痢が流行)、水害で工事済の部分が破壊される等もあり、工事終了までに薩摩藩士33名が病死、51名が自害(切腹)・・・
自害の理由は理不尽な要求ばかりの幕府への抗議が大半だったよう!!!
今の価値観からすれば「命は粗末にしてはいけない」って教えられてる。
でも武士の世は抗議やけじめをつける時に切腹するのが美談!!!
「命は粗末にして、生に執着しすぎることがむしろ恥」くらいの価値観。
責任者の平田はこの切腹を自害として届けなかったの!!!事故死として。
幕府への抗議をオフィシャルにしてもいいことないとの判断でしょ!!
それじゃあ、切腹した51人が浮かばれない<(`^´)>
そう考える人もいるよね。51人に報いることも大事と思う。
でも平田靱負は薩摩藩では家老(殿様の次にえらい)、治水工事現場では責任者。
この立場で51人の切腹に報いられない。
当時は許可のない切腹は厳重に禁止されていて、守らない場合はお家断絶もありえたの・・・
お家断絶ってのはここでは「薩摩藩を潰す」ってこと。
殿様と家臣は浪人になるしかない・・・江戸時代では最大級に重い罰則!!!
51人の覚悟に報いる為に、このリスクは冒せない。
治水工事後
1755年の5月22日に工事完了。
この工事の為に薩摩藩から派遣された藩士は約950名。
この工事の為に作った借金は現在の金額にして約300億円。
この工事の為にでた死者84名。
5月24日に幕府の最終確認を経て、総責任者の平田靱負は故郷の薩摩の殿様へ工事の完了報告。
5月25日早朝
総責任者の平田靱負は84名の犠牲者、予定以上の大借金、工期の遅れなどの全ての責任を取って、現在の岐阜県養老郡養老町大巻にて割腹自殺。享年50歳
辞世の句「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」
自殺を美談と捉えてはあかんのは承知してるけど、平田靱負はカッコええ!!!
守るべきものの優先順位、行動力、責任感、潔さ (^o^)丿
興味が沸いたら是非一読を↓
平田靱負を求めて
薩摩義士たちのお墓参りがしたくて、まずは三重県桑名市の海蔵寺へ
入口入って左へ行くと木の切り株が!!!
薩摩藩士が植えた松らしい
その右手に↓
ん??
24名って・・・全員おらんの?
と今頃気付く・・・
でも平田靱負の墓は見て行こうと!!!
何か立派やった。
でも犠牲者85名がおらんとあかん!!!
ってことで今度は
岐阜県海津市にある治水神社へ
これ凄いとこにある。赤丸↓
3本の川がすぐ横を流れてる場所
何か良い感じのとこ。厳かな感じ
人が殆どいない・・・それはこの出来事の認知度の低さか(>_<)
隣は公園。木曽三川公園
ここは人いっぱいいた。
入ってないけど季節の花がいっぱい咲いてるらしい。
も少し隣の神社もアピールしてよって感じ・・・
ここは85人全員が祭神。で主祭神が平田靱負!!!
やっと85名全員にお参りできる(*^▽^*)
今度は隣の木曽三川公園込みでまた来ようや!(^^)!
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