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ヨーロッパ史② ローマ帝国分裂後

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前回は共和制ローマから帝政ローマになって、キリスト教を国教としたけど、東西に分裂したとこまでやったので、今回は下図、ローマ帝国の分裂後から。

今回も出来事や人物の詳しい解説は基本なし。

ヨーロッパ史の流れの理解を最優先で(^o^)丿

必要最低限、流れを知る上で必要な部分は詳しくやる。

そんな感じで!!!!

目次

 少しおさらい

前回にも言ったけど、ヨーロッパ史が複雑なのは領土の変遷と民族が複数でてくるから。

これが日本史、中国史との大きな違い。

今までの解説ではヨーロッパは基本ローマ帝国1つ。民族は基本はラテン人。

この領土で国が変遷を繰り返すなら、理解はしやすい。

でもここからゲルマン民族が登場して、国土も細分化されてく・・・

更にゲルマン民族も各地で建国して西ゴート人、東ゴート人、フランク人、ヴァンダル人、ランゴバルド人等とこれまた細分化されてく・・・

一応書いたけど、これは頭の片隅でいいかと(#^.^#)

では東西分裂から再開

 ローマ帝国の東西分裂

下図は分裂後のエリア

東ローマ帝国の首都はコンスタンティヌス帝が遷都して改名したコンスタンティノープル(旧ビザンチウム)
強い軍事力と豊かな経済力を持っていたため、ゲルマン民族の大移動の影響を大きく受けることはなかった。

一方、西ローマ帝国の首都はローマやけど、皇帝はミラノとかラヴェンナに住んでたらしい。
西ローマ帝国はゲルマン民族の影響をもろに受けて、その領土内にゲルマン人国家をいっぱい建国されて、徐々に領土も縮小してく。

最終的にはローマに仕えていたゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって、西ローマ皇帝が退位させられて、東西分裂後、約80年で実質西ローマ帝国は滅亡(>_<)

これが476年!!!

これにより東ローマ帝国が唯一のローマ皇帝となり、古代ローマ帝国を継承していく。

ここで問題が・・・

ローマ帝国継承するのにローマがないやん(+_+)

この時イタリア半島はゲルマン民族の1つ東ゴート族に支配されてた。

ここで西ローマ帝国滅亡から約50年で名君ユスティニアヌス1世が東ローマ皇帝に即位。

ゲルマン民族に奪われた西側の領土奪還に向けて進出。

ローマも取り返して、在位時の最大領土は下図。
ローマ帝国時代の領土に近いところまで回復させた(*^▽^*)

ユスティニアヌスは頑張ったけど・・・

彼の死(565年)後、すぐにイタリア半島は奪い返されて、ローマも失う・・・

ちなみに奪い返されたのはゲルマン民族系ランゴバルド人。覚えなくてよし。

東ローマ帝国はこの後1453年の滅亡まで、1度もイタリア半島を奪取できずに終わる。

最初の年表にも東ローマ帝国は「ビザンツ帝国」と記載されてる。

ローマないし、繁栄してる地域はギリシャ圏やしね。

首都のコンスタンティノープルは古代ギリシャ時代はビザンチウムと呼ばれてた。

ビザンツ帝国の名称はここから取られてる。

更に言うと7世紀には政治公用語はローマ帝国の公用語だったラテン語からギリシャ語に変更

更に更に次のフランク王国で説明する「フランク王=西ローマ皇帝復活」をローマ・カトリックの教皇が宣言したことで、ローマ・カトリック教会とコンスタンチノープル教会が利権を元々争っていたこともあり、キリスト教の教会もギリシャ正教会(東方正教会)として独自の道を行くことになる。

ここは詳しく言うとややこしくなるから少しだけ・・・

次のフランク王国の時にも少し言うけど、ヨーロッパのエリアの皇帝や王様はキリスト教、特にローマ・カトリック教会との権力争い、付き合い方も大事。

このへんは難しいよね。皇帝や王もキリスト教徒やから。

8世紀の東ローマ帝国は皇帝の権力が高くて、教会自体を支配してた。

これはローマ・カトリック教皇は気に入らない。

だから東ローマ帝国やめてフランク王国に後ろ盾を乗り換えた。

で、東ローマ帝国もコンスタンティノープル教会がローマ・カロリック教会と権益争いしてるの知ってるから、地元の教会の味方してギリシャ正教会の国として進んでく。

かなりざっくりやけど、流れ掴むだけならこれくらいがいいかと。

ここで一旦、ビザンツ帝国はお休み

 フランク王国

4世紀にゲルマン民族の大移動が始まって、5世紀に元西ローマ帝国領土でゲルマン人の建国ラッシュが起こる。

殆どの国は短命に終わったけど、フランク王国だけは10世紀まで続く。

想像つくけど、フランク王国はフランスの語源ね。

481年に小国分立状態やったフランク人を統一してフランク王国は誕生。

これは西ローマ帝国滅亡から5年後の事。

建国者はメロヴィング朝のクローヴィス。まあこれも覚えなくていい。

フランク王国は他のゲルマン民族国家を次々とやっつけて、徐々に領土を拡大していく。
こんな感じに

で、732年にヨーロッパの救世主となる出来事。

これがトゥール・ポワティエ間の戦い

この戦いは少し解説。

下図の色付きの部分は、イスラム教のウマイヤ朝の領土。この凄い領土を100年足らずで築き上げたの。ものすごい勢いのある国。

それが青矢印の経路で攻めて来た。


これはフランク王国の危機どころか、ヨーロッパ全体の危機。

これをフランク王国カロリング家のカール・マルテルって奴がやっつけるんやけどね。

これにもしフランク王国が負けてたら、イスラム教にヨーロッパ中支配されて、キリスト教のヨーロッパでの繁栄はなかったって言われてる(#^.^#)

この戦いでの勝利はやはり格別なもので、カロリング家はメロヴィング王家に代わって変わって王位を担うことになり、カロリング朝ができた。

その初代王はカール・マルテルの子のピピン3世。これが751年。

このピピン3世は当時イタリア半島を支配していたランゴバルト族をやっつけて、その領土の一部ラヴェンナ地方をローマ教皇に献上。これが「ピピンの寄進」と言われる出来事。756年のこと。

これは重要なのよ。

一見、歴史の流れを重視する中で詳しく解説いらんでしょって思うかも、やけど・・・

このピピンの寄進が意味することを解説。

これが前の東ローマ帝国の最後で書いたローマ・カトリック教会と東ローマ帝国との関係を決定づけたと思っております。

ラヴェンナ地方は一時期、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が飛び地で管轄していた。

この地方をローマ教皇に献上することで何が起こるか?

・東ローマ帝国とローマ教皇を対立を激化させた。(元々微妙な関係)

・逆にフランク王国とローマ・カトリック教会との結びつきを深めた。(ここでガチガチ)

前にもいったけど、ヨーロッパ世界においてキリスト教との付き合い方は重要(*^▽^*)

何故なら身分、民族を越えてヨーロッパに住んでる人達はほぼキリスト教徒だからね!!!

ただローマ・カトリックを味方にするとかしないとか・・・

「神の前ではみんな平等」って教えは???

ここからピピン3世の子供であるカール1世の時代に重要な出来事が起こる。

それが「カールの戴冠」。800年の出来事

これは「西ローマ帝国」の帝冠をローマ教皇が渡す出来事で、フランク王国が西ローマ帝国を継承したことになり、西ローマ帝国を復活させたことになる。

これが東ローマ帝国とローマ教皇との確執を決定的にしたという人も多いけど、個人的には前述の通り、決定打は「ピピンの寄進」

「カールの戴冠」は世の中の契約事でいうなら双方押印。すなわち確認。

「ピピンの寄進」は双方合意。

この時点で袂を分かつことは双方認識済って思ってる。

その後の東ローマ帝国はギリシャ正教会ね。前に言ってるね。

で、カールの戴冠直後のフランク王国の領土はカールの死後に下図のようになる。

3つに分裂ね!!!

分裂の理由は簡単に言うと相続問題。

カール1世は戴冠後はカール大帝と呼ばれ、その統率力、政治力は類をみないものだった。

それは逆に言うと、個人の力量での統治であり、法規や制度に基づく統治機構ではない・・・

そうなるとカール大帝が死ぬと・・・ご想像の通りとなる。

大国になると早急に制度の整備は必要やね。

制度なしで何代にもわたっては統治は不可能なんやろね。

その制度も時代の流れの中で微調整していって、初めて長期統治ができる。

古代ローマの分裂は制度はあったが微調整の欠如、フランクの分裂は王に頼り過ぎの無制度が生んだものかなっと思うところ。

分裂後の領土を見て分かるかな。

現在のフランス、ドイツ、イタリアの基がこの時完成。

ここから西フランク王国はフランス王国へ、東フランク王国は神聖ローマ帝国へ~

続きは次回へ

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